それ如何

 いかんせんである。如何せんなのである。自分に出来る事なんかはたかが知れてはいる。それはそれで仕方がないんだと片付ける。知ってはいるけれど知らないふりをしてみる。全ては自分自身に帰結するのは明確で、やるもやらないもそこはただそれだけ。それでももがいてはみる。解っていないふりをしているだけなのか、可能性はまだあるのか。いや、まだまだあるのか。もしかしたらもう終わっているのかも。ただそこは自分一人ではなくて二人ないしは三人いるというのが救いである。何がしたいかのかは明確になっている分、そこでのギャップに苦しむのはいつものことだったな。というのも久々の生みの苦しみを味わっているのかもしれず。一つ何かをつくるのは大変だったのだ。そこの過程はいつもすぐに忘却の彼方。彼方。だからまたやるのかも。それの繰り返し。それが理由ではある。
 想像力だ。それは全てを包み込み凌駕する可能性を秘めているのに忘れがち。理想と現実を埋めていくのではなく、もっと大きな観点からみるべきだと考える。誰が切り開くのでもなくそこは自分自身。よく疑ってはみるものの悲しいかな、他の誰にもなれないのであるという事は十分解っています。出来る範囲でやれることをやるべきで。変に欲をだしてしまうが故にろくなことにならないのだろう?やはり理想と現実を埋めていくのでは駄目なんだ。はっきりさせるべきはそこからか。まだまだ自分に対して客観的になるのには鍛錬が足りていないという事が明確になりもがいている。

 要らないものをひたすらに削ぎ落としてみたいと願う。そういうものはどうしたら出来るものかなとずっと考えているような。足すのは割に簡単だけれど引くのは勇気がいる。覚悟がないとできない。そしてそこを決める線引きが非常に難しい。一つ一つのパーツが有機的になって初めて成立しえるもので、それは必然。偶発的に起こる事に期待しているうちはまだまだ全然だめだと悟る。そこを楽しむだけの余裕と覚悟が不足している。詰まるところぼやっとした全体での印象だけが残るというか、抽象的なイメージだけが残るというのが今現在の理想。誰がためにやっているわけではなく、(勿論それだけではないけれど)納得させるべきは一番身近な所にあるがそこはかなりの難攻不落であるべき。それのみに殉ずる事が出来ればいいのだけれどまだまだ無駄が多いのが事実。近頃、思ったことばかりで考えることがすごく少なかった。そんなことは別に自己完結しておけばいいのだが。