アイデンティティー

 今年の初めにやたら「アフロ・フューチャリズム」について書いていた時期があったが、また違った角度から再燃。黒人ミュージシャンによくみられる宇宙志向やSFじみたコンセプト、こういったものが「アフロ・フューチャリズム」だとか「ブラック・サイエンスフィクション」といわれる。いきなり確信だけれど、これっていうのは自己のアイデンティティーを問う事が日常の中によくあったのだろう。多人種・多文化に囲まれて育まれた自己意識に対して、自分は何処からやってきた何者なんだ?という疑問を持つ事が多かったのではないだろうか。そんな根源的な問いからやってきているのか。「アフロ・フューチャリズム」伝えるべき事、込めるべき意志が明確なそれらはとてもタフだ。自分におけるそれっていうのはあるのかないのか。本当に投影しえる明確な何かっていうのは見当たらない。
 日本で生まれなに不自由なく育った自分なんかはそういう疑問を抱く事26年生きてきたわけで。勿論思春期にはそういう事に対して懐疑的になった時期はあったにせよ、それはあくまで自分の域をでるのはゼロに等しかった。社会的観点から自己を問うみたいな。故に自己を表現する(自分の場合は音だ)ものと現実との隔たりが生じる。己の生が投影されているのかいないのか、いやされてるか。あのアルバムは。

「水中で呼吸することは人間にとって可能だろうか。母の子宮の胎児のように、水中の環境のなかでもそれはたしかに生きている。 世界が知る、もっとも大がかりな大虐殺、アメリカは過酷な労働によって病気になり狂気に走った奴隷たちを束ね、海に放り投げたのだ。空気を必要とせず、海のなかで生を営む赤ん坊の存在があり得るのだろうか。ドレクシヤンは人間の貪欲さによって変形させられた水中の犠牲者たちの子孫である。彼らはメキシコ湾からミシシッピー川を上り、そしてミシガン湖にたどり着いたのだろうか。これはひとつの終わりであり、もうひとつのはじまりである。」やはりDREXCIYAにおいては超強烈。