やられた。


 やられた。なんにも期待せずにターンテーブルにのせたらもっていかれた。
 曲がいいとかメロディーや歌詞がいいというのは勿論ある。あるのだがそんなことより、ぐっと掴まれるなにかがあるのだ。沁みるというかしゅんでいき、こう、感情がとけていくとでもいえばいいのか。あらがえぬなにかがある。そこからぶわーっと広がっていく感覚は喜怒哀楽全てをつつみこむ。真冬の炬燵のような温もりがある。歌謡曲という音楽にはそうしてよくやられている。このブログでも歌謡曲についてはよく書いているが、そのなにか、ことばにできないような感覚を求めて俺は歌謡曲を聴く。

『湯浅学/大音海』

大音海 (ele-king books)

大音海 (ele-king books)

 9月末で30ももう2になって32になった。誕生祝いを2名と2組からいただけたおれは幸せもの。皆様ありがとうございます。それぞれに文章が書けるくらい内容が濃かったのだが今日はバンドメンバーからいただいいたこれ、『湯浅学/大音海』
 以前にも書いたことが湯浅学さんの文章が好きで。なんというか使われる言葉とか言い回しがすごくしっくりくる。抽象的な表現であってもリズムで読めてしまう。おれはレゲエのワンドロップやステッパーズのリズムには血肉沸き立つ感覚を覚えるのだが、まさしくそんな感じ。意味わかるかな?視覚から入った情報が脳にいって体中にぶわーって広がり、耳の心が一つ開かれる。意味わかるかな?
 湯浅さんの文章にはじめて意識的にふれたのは『音楽を迎えにゆく』だった。その中での「耳の心、心の耳」と「悪い音の教え」にはおれの耳の心、心の耳をずいぶん拡張させていただいた。この本以前以降という、点がおれの中にある。もしこの記事を読んで、読んでみたい、という奇特な方がおられましたら、この著作と兄弟作の『音楽が降りてくる』をセットでお貸しいたします。まずは音楽を〜から読んで大音海がよろしいかと。大音海はもはや辞書並のページ数。あいうえお〜順だし。というこの情報量を一冊の本にしてしまう、してしまえるのもスゴい。まだ続く。
 評論や批評にもいろいろだが、常々思うのは対象の作品に対することで別の作品が生まれる、作品に関する回答、アンサーがあって然るべきだと。歴史とか楽理とか、生い立ちだけなんか調べたり勉強することで誰でもできるのでは、という疑問はある。それよりも想像力に創造力を働かせて文章を書くからこそ、文章がロックよりもロックを感じたり、ジャズよりもスイングしてしまう所以ではないか。聴いたことがない音でも、読んでいて音が頭の中でなんとなく鳴りだす文章なんだから実際の音聴かなくてもいいじゃん、と思う程の文章もある。大音海を読んでいると音が要らない。そんなわけで実際音を聴いてみると、妄想が膨らみすぎたためか、残念ながら、なんだ、こんなものか、となってしまったことも何度かある。勿論、その上を遥かに超える音もある。結局のところ自分自身の耳の感受性に帰ってくるのだと思うようしている。音楽について話すことがあればそうするように肝に銘じているつもりではある。あるのだが実践するのにはまだまだな耳なので、あまり自分からはどうのこうのとはいわないようにしている。きかれたら答えます。ただ話すのはヘタクソ。
音楽を迎えにゆく

音楽を迎えにゆく

音楽が降りてくる

音楽が降りてくる

Past<Future

 おもにヨーガしてたし、今もやっている。ヨガは面白い。知れば知るほど面白い。別に健康になりたいとか、悟りたいなどという理由ではない。理由はシンプル、面白いから。自分の精神・肉体・呼吸というとても身近で一生ついてまわるものが対象。ヨガをしているとたくさんの気付きがある。心だったり体の日々の変化だったり。そこにヨガには一説には5000年!?ともいわれる歴史があるらしい。その歴史上で生まれた哲学がある。音楽もそうだけれどそこが面白いんだわ。このブログ読んでくれている人はわかると思う。そういうところも書いてきたつもりではある。知らなくてもいいことだけれど、知っているとより楽しめる、深められる、というのはなんでもそうだと思う。音楽もそうだけれど、ヨガもすぐ宇宙とかいうんだ。どちらも決して現実逃避的な意味での宇宙ではない。内なる宇宙そして大いなる宇宙、それを繋げていくということだ。カルトか、宗教か、と思ったでしょう。その通り。原始宗教に近いとということを教わってすごく腑に落ちた。はじめてもうすぐ1年。というわけでヨガには恋してます。 
 そしてツールドフランスに出たくてロードバイクも乗りはじめた。いく時は100キロ、200キロ。人は俺を阿呆だという。俺もそう思う。が、阿呆だけでは100キロ、200キロこげません。俺はごく普通の人なので気合いとか根性とかいったものでこいでいます。好きなんだな、気合いとか根性。のっていると何処までもいける気がしてくる。距離も意識も。たかが自転車、されど自転車。これまためちゃくちゃ深い。パーツ1つどうするのかという世界。どんなスタイルになっていくのか、どんな自転車になっていくのか夢は膨らむ。

 結果、音楽が一番ゆっくりになった。演奏するのも聴くのも。数は少ないライヴの中でも、もうこのまま死んでもいいんじゃね?と思う演奏の瞬間があったし、人が演奏しているのを聴いていても然り。ありがたいことに東京にもいけた。音楽があってそれを共に演奏してくれるメンバーがいる。そもそもスタジオでメンバーと他愛もない会話しているのが楽しいんだ。ベルリンに旅立ったまほにいわれたな、こんな音楽を一緒に演奏してくれる仲間がよくいたなって。その通りでございます。YYBYはじめて10年。10年続くのはそれなりの理由があってのこと。ギターおいてミキサーがメイン楽器になり、ドラムが電化され、ベースのフレットが抜かれることなんて誰も想像していなかった。必要があって変化してきた。YYBYの音楽探求の賜物だと誇りに思う。まだまだやりやいことはたくさんあるぞ。
 聴く方も全然レコード買えていない(チャリにつぎこんだから)けれど、Pefumeのアルバムを買って、新譜を発売日に買って聴ける喜びを感じ、ミンガスのブルースに心熱くし、ART ENSEMBLE OF CHICAGOの強靭でしなやかなジャズに心踊らせ、テレサ・テン桃井かおりの歌に浄化される俺の感度は落ちてなんかいない。

 ヨーガもチャリも音楽もつまるところ目的は同じ、自分の洗濯。手段が増えた。




 最後にこのブログのタイトル(Past<Future)をいただいた、安室奈美恵さんが引退。大好きな60s 70s 80sをあげておく。良い時も悪い時もあり、音楽的な変遷も経て日本音楽史における巨星になったんだと思う。海の向こうではアレサ・フランクリンもだ。Rock Steadyはアレサが元ネタ。2人とも俺んなんかがどんなに言葉を尽くしてもとうてい足りはしない。リスペクト。俺の部屋のドアには安室ちゃんのポスターが貼ってあるんだ。いま、という瞬間を大切にPast<Futureでありたい。

歌の心

 梅雨明けくらいから夏の終わりにかけて歌謡曲の7インチを200枚くらい買ったんだけれど、さっき全て聴き終えなんか達成感がある。夏の間に全部聴くのが目標だったけれど年の瀬まできてしまった、、、夏が終われば1年はあっという間に終わるのか。あれほどお寺巡りをしていたのが、全くいかなくなった。紅葉は興味無し、人阿呆みたいに多いし。何より寒いのが駄目だ。あれは信仰心かなにかの芽生えじゃないかとも思ったが、全然そういうものではなかったみたい。まあしかし、外出しなくなったおかげで200枚越年しなくてよかったな。クジみたいなもので、当然当たり外れがあるというか好き嫌いがあってそこを楽しみにしている部分もある。良い曲はたくさんあったけれど、その曲を聴くと何だか自分が浄化されるような特別な曲はほんの何枚か。そんな音楽が自分の中に多いのは歌謡曲

これとアグネス・ラム/雨上がりのダウンタウン
全く知らなかった曲で印象深いのはこの2曲。あと尾崎亜美にはヤラレた。
 というわけでかなり歌を聴いた。同居人からはお前の部屋はスナックか、といわれるくらい。だって歌って良いな思う。人の声って良いなと思う。一番身近な楽器ですもの。故に歌の心は深いぞ。

相倉久人ジャズ著作大全

 相倉久人ジャズ著作大全という本を読んでいて、ハードカバーで上下巻という結構なボリュームなんだがこれが面白い。前書きが上巻が萩原健太菊地成孔なんだけれど帯からして爆発している、「音楽を熱く語る。論ずる。そのこと自体もまた音楽だった。」萩原氏。「ダンスひとつ踊れない君たちに、相倉久人の再評価なんか出来ると思っているのかね?」どちらも痛快。帯買い。ジャズ。評論、いろんな方向性からできる、例えば歴史とか理論等々。そうではなくて作品を聴いた上で、そのアンサーというかそういうもう一つの作品を作っているなこれは、くらいの文章が好き。読み物として面白い。理解できるとか理解できないとか、そんなことは重要ではなくて「何か」でいいと思う、感じるものがあるかどうか。実際ジャズ聴く上でもそうだと思う。フリージャズなんて座って聴いていてもわかるはずなくて、立って踊って聴けという文章が出てくるんだけれど、すごく腑に落ちた。考えるな感じろ、みたいなことをブルース・リーがいっていたけれどまさしくそうで。MOODYMANN聴いてジャズ感じるのも当然。ジャズの懐はとんでもなく広い。自分にはこの程度の文章が限界だけれど、50年代からリアルタイムでジャズと真摯に向き合ってきた軌跡がここにはある。
 菊地成孔曰くこの本がジャズ村、ジャズ批評村、60年代書籍村から出る確率は98パーセント無いと書いており、なんとなく想像出来笑った。ジャズという神棚みたいなイメージ確かにあるなと。相倉さんもジャズを書くことによって、ジャズを解放したかったのではないかと思う。マイルスもいつのまにか演奏する側より、客席にいる奴の方が良い服きて聴きにくるようになったって嘆いていたけれど、いつの音楽史とってもこれだけ演奏している側がヤク中だらけだったこともないんじゃないか。そんな音楽をありがたがって聴いてどうする、道端の音楽だってことで自分に何ができるわけでもないのだけれど、最近ミンガス、チャールズ・ミンガスが好き。
相倉久人 ジャズ著作大全 / 上巻
相倉久人 ジャズ著作大全 / 下巻 言葉によるジャズ行為の爛熟章

蛇と枯山水とお天気雨

阿弥陀寺



蓮花寺


圓光寺


Ashra/Sunrain
https://www.youtube.com/watch?v=2T_hHQ64B54
 今日は朝から市原まで散髪に行き静原越えで大原までいって帰ってきた。かなり自転車こいだと思う。八瀬あたりで小松均美術館へ引き返したけれど美術館もうやっていなかった。て、人から聞いたかもな思いながらもこの目で確かめたかったのである。残念。阿弥陀寺には蛇に出会った。枯山水×蛇。なかなかおつ。蛇は動きがかっこいい。マムシかなと思ってきいてみたけれど、アオダイショウとシマヘビらしい。阿弥陀寺は座敷があって煙草が吸える。機材一式持っていって曲作りたい。それはなかなか厳しいからシンセ持っていこうと思ってる。電源あるのは確認済。後の二つのお寺も素晴らしい。圓光院の水琴窟の音色は絶品。サンプリング済。新曲で早速使用済。この三つかな。平日行くとあまり人がいない。阿弥陀寺は誰もいない。遠いから。瑠璃光院も格別だけれど公開は春と秋。人は多い。それでもあそこは別世界。西の山の方にもこういうお寺あるなかな。自転車こいでディグだな。
 何故AshraでSunrainなのかというと久々聴きたくなって買い直したんだけど、Sunrain/お天気雨最近みていないなとふと思っていたら職場でみれた。Sunrainていうテーマで作ったんだろうけれどまさしくお天気雨が浮かぶ。情景描写が素晴らしいと思う。絵などと違って視覚じゃなく聴覚だからイメージを湧かせるのが難しいんだけど、この曲すごすぎ。枯山水×蛇で曲作ってみ、てなってもまーやっているうちに最初のイメージとはかけ離れたものになる。さすがのゲッチング先生。さて明日は練習。暇のつぶし方はなかなかに難しい。

極楽浄土

真如堂





三千院



・勝林院


・宝泉院


阿弥陀寺











寂光院






 梅雨というほど雨が降らないのでサイクリング&サイクリング。真如堂以外は全部大原。大原すごい。自転車で40分程度。八瀬あたりから空気が変わる。この地には何かあるんだろうなと自分程度でも感じる。極楽浄土というけれど、まさにその世界を体現しているお寺がたくさん。苔の地面に新緑の高い木、そして何百年も前から人々の願いをきいてきた仏様。まさにアナザーなワールド。何年か前にも書いたことがあって、最近はもはやかよいたいと思う阿弥陀寺は圧巻。参道から境内まであれは異世界か。寂光院平家物語の舞台で「祇園精舎の鐘の音〜」の舞台。この一節好き。無常、永遠なんてないんだという。悲しいかな死は突然やってきたりするもので「ゆっくりいそげ」江戸アケミはいいこというな。明日はバンドやって久々METROいくんだ。ゆっくりいそげ!